旧日本人のビジネス・マインド■
8.無謬主義=人治主義・建て前主義
「完璧を期すためなら、コストをいくらかけてもよい」と思っている
旧日本人には、「テコでも自分のまちがいを認めたくない」という心理がある。旧日本型ピラミッド組織の中で上位の人間や、役所のように社会システムの中でも上位に置かれている機関は、まちがいを犯してはならないし、まちがいがないという建前になっている。
何か役所に些細な手違いがあると、かさにかかって怒鳴り込む人がいる。食品に混入物があると鬼の首を取ったかのように言い触らす人がいるので、食品会社は全品回収で大損害を被る。国会で作った法律に手抜かりがあると、すぐマスコミは「ザル法だ」と言って叩きにかかる。法律なんかすぐ直せばいいのに、なぜかまた役所は手抜かりをテコでも認めず恣意的に運用を変えることで対処しようとする。「まちがいなんぞあっちゃあ沽券に関わる」とでも言いたげである。
しかし人間はそもそもまちがいを犯すものである。世の中は矛盾と錯誤に満ちている。大切なのは無理を押し通すことでなく、システムをよりよいものに改善し続ける努力である。限界的なところで完璧を期すために、コストをいくらかけてもよいというのは非効率な考え方だ。銀行員の中には新入りの時に、10円の帳尻を合わせるために課員全員が夜中まで残業をし、計算を合わせることで「銀行が無謬であることの尊さ」を叩き込むという通過儀礼を受けた人も少なくない。そんなことをしているから潰れるのだ。アメリカのコマーシャルバンクなら、計算が合わないロスが一定量あることがあらかじめ織り込まれていて、問題とならないと聞く。合理的だ。
人間がやっている限り、まちがいはあるのだが、自らが作った幻想に依存する旧日本型社会システムでは「価値は上意下達の一方通行で決して遡上することなく、また変化もしない」ことになっている。役所が無謬でなければならないのはそのためだ。農民や町民が取り返しのつかないまちがいを犯したとしても、代官所に駆け込んで、「お代官様、とんでもないことが起こってしまいました。私たち下々のものにはどうしようもありませんので、なんとかしてくだせえ」と頼み込むと、代官が超法規的に理不尽を通して、問題を適当に丸めて一件落着するという封建的な解決方法が踏襲されている。代官の行動を担保しているのは、法ではなくて個人の見識である。いわゆる人治主義である。
人治のためには、決定権者にはまちがいがあってはならないのだ。
このシステムでは、落語や講談の「大岡裁き」のように決定権者が優れた人物であれば法律による統治よりも納得性がある場合があるかもしれないが、あらゆる決定権者の恣意がまかり通るというところに問題がある。善意と規律に欠ける人間が代官になったら、誰も彼の暴走にストップをかけられない。
そしてわが国の社会システムは、いまだにこのような人治の土壌の上に乗っていると見るのが正しいだろう。企業は何か問題があれば監督官庁にかけ込む、市民は何か問題が起こればこぞって役所の責任を追及する、景気が悪いとなれば政府に「なんとかしろ」と要求する、街の治安は自分たちで守るのではなくヤクザや地廻りに守ってもらおうとする。ここには自分自身が努力せず、責任をとらずに、他の誰かに問題を解決してもらおうとする依存的な姿勢がある。
「自分よりも仕事が確か」だから相手にぶら下がっているだけなのに、それがいつの間にか、「自分が依存する相手には、まちがいはないだろう」という思い込みにすり変わっているわけだ。そうでなければ安心して依存できないからである。しかし本来は、神ならぬ身の人間のやることなのだから、まちがいがないということはあり得ない。こうした思い込みこそ、「自分たちが、勝手に作った絶対者」に頼りたいという弱い心のなせる技なのである。