お神輿経営の病理2
【意思決定の欠如】
まず御輿には、方向をきちんと指示する指揮官がいないので、どちらの方向に向かうのか誰にもわかりません。神輿の進む方向は、あくまでも担ぎ手たちおのおのが周囲の「空気」をつかむ中から、なんとなく決められています。したがって、自分たちが担いでいる神輿がどこに向かっているのかは、正確には誰も知らないのです。歌舞伎には舞台監督がいません。なんとなく役者たちの総意で舞台が出来上がっていく、それと似た意思決定の方法でしょう。
【無責任】
2番目に、神輿が沿道の家の軒先を壊したり、民家の塀を壊したり人にぶつかってけがをさせても、責任は問われません。なぜならば、それは神さまがしたことだからです。決して神輿の担ぎ手たちが故意にやったことではありません。担ぎ手の総意は、すなわち神さまの意思なのです。神さまがした悪さであれば、文句を言えないのです。そしてやった本人たちもまったく責任を感じないのです
不良債権がたまろうが、会社が破産して支払いが停止しようが、「みんなに責任がある」ので、「だれも責任をとる必要がない」わけですね。
【家族主義】
3番目に、神輿は地域コミュニティに帰属しています。だから、大勢いる神輿の担ぎ手は家族のようなものです。わっしょいわっしょいみんなで担いでいるように見えても、中には担いでいなくてぶら下がっているだけの人もいます。いったいだれが本当に担いでいて、だれがぶら下がっているのかは、だれにもはっきりとわかりません。だからといって、だれがいちばん神輿の運行に貢献している、だれがまったく役に立っていないという業績評価を明らかにしようなどとは、誰も考えません。目的も効率性も問題ではありませんから、個人の貢献度を問うことはまったく意味がないことなのです。家族はみんな平等なのです。能力主義・成果主義などお神輿経営には馴染まないのです。
【自己目的化】
最後に、神輿は重いことに意味があります。御神体はそんなに重いものではないでしょう。それをわざわざ神輿に積んで重くするわけです。つまり目的は「最短距離を最速で行く」ことではなくて、「みんなで頑張って担ぎ上げる」こと自体に意味があるのです。神輿がどこに向かっていようとも、それは大きな意味を持ちません。目的を達成することよりも、共同体に参加していることの確認行為として、みんなでひたすら頑張り続けること自体が目的なのです。担ぎ手全員がそう思っているわけですから、それが組織目的となるわけです。神輿をかついでいるビジネスマンたちは、全員「オレが神輿をかついでいるんだ」と思い込んでいるけれど、実際はなんの目的もなく、一緒に担いでいる人間と同じ方向にどんどん流されているだけなのです。
企業の課題は、株主資本と労働資本から生み出されるアウトプットを最大化することですが、神輿は最終目標地点に向かって、最速で移動するわけではない。効率性は意識されないのです。行き当たりばったりでムダな労力やコストをかけていても平気なのです。
だから儲かるはずがないわけです。
そして目的も、本当のところは担ぎ手たちが自分たちの都合のいいように設定しているのです。強いて言うなら、日本企業の目的は「社員の生活を守ること」です。だから実際のところは、日本企業の戦略的経営は不可能なのです。また神輿のオーナーである株主の利益など、担ぎ手たちはまったく考えません。だから株価が上がらなくて、投資家にとって株式投資はペイしないのです。
旧日本人ビジネスマンの組織依存の方法は、自分たちが依存している権威=経営者を無力化し、実権を取り上げて好きなことをやるというずるいやり方です。これを簡単に表現すると、「でたらめ」と言えるでしょう。だから日本企業は、儲からないのです。旧日本人は、自分で価値をつくるのではなく、他人がつくった価値を横取りして生きているわけです。これまでの日本企業には高度成長期に貯めた資産がありましたから、こんなでたらめなやり方が可能だったのです。
日本全体がこのようにお神輿を担いで、ふらふらと漂っているから、会社は儲からないのです。