新しい知識や情報を求める
そして最後に、新日本人には常に自分が知らない新しい知識や情報を求めようとする姿勢が必要です。
ルネサンスの人びとは、新しい知識をギリシャやローマ時代の古典を再発見することによって得たわけですが、われわれはもっと恵まれた立場にいます。われわれの目の前には、人類の遺産である膨大な古典がありますし、また外国の知識もかなり翻訳輸入されています。むしろ多過ぎるくらいです。そうしたあふれかえる情報の中から、今のわれわれが最も必要としている情報を選び取って、分かりやすい形で世の中に広めるという編集能力が、オピニオンリーダーやメディアには求められているかもしれません。
たとえば90年代後半にソニーが「執行役員制度」という言葉でアメリカ流のコーポレートガバナンスを日本に輸入し、それが一気にビジネス界に拡がったのはよいケースかもしれません。それまでの日本企業では、株主を無視した従業員による従業員のための会社統治の仕組みが普通でした。ところがソニーが導入した執行役員制度という言葉がマスコミを通じて拡がって、あっという間に市民権を得、商法の改正にまでつながり、ビジネスマンのコーポレート・ガバナンスに対する認識に大きな変更を迫ったのです。同社が拡げた言葉には、「ビジネスモデル」というものもあり、これも旧日本人ビジネスマンの「仕事とは、与えられた課題を与えられた通りにやっていればいいんだ」という受動的なビジネス観を破壊するインパクトを持っていたと思います。ビジネスは自分で創造するものなのです。
旧日本人はこのような、自分たちが知らない新思想がやってきたときには、とにかく否定してしまおうとします。それが自分にとって得なのか損なのかを考える前に、「日本には日本の良さがある」という夜郎自大の思い込みでそれに背を向けてしまうのです。そして旧日本人に理屈は通用しません。「理屈を言うなっ!」と怒られてしまいます。
このように考えてくると旧日本人は、絶対権威を否定すること、ビジネスの視点を持つこと、他者との交流を活発化すること、新しい知恵を求めることによって、中世の人間がルネサンスを経て近代人になったように、「新日本人」という自立した存在に生まれ変わることができるように思えます。
個人として自立できなければ、会社や政府の押しつけてくる不合理な圧力を否定できませんから、ぶら下がり続けるしかない、つまり、組織を変える力は持てないということです。自立した個人だからこそ、「自分が社会を支えているんだ」という責任感が持てるわけです。
また、組織の持つ権威とそれにもとづく一面的な価値観の押しつけを否定するためには、外の世界に普遍的な価値を求めるしかありません。ですから新日本人は、個人として独立しつつも、「世界人」として通用する価値観を身につけることができるはずなのです。
これは「そういうふうにできればいいねえ」という話ではなくて、これからのビジネスマンが生き残るための必要条件と言えるでしょう。新日本人になれなければビジネスを戦う資格が与えられない時代はすぐ目の前に迫っているのではないでしょうか。自立した個人でなければ、自らが価値を創造できません。現代のビジネスマンに求められているのは、デフレをぶっ飛ばす付加価値の創造なのですから。