1940年体制とカイシャ天皇制
タコツボ社会とタコ足経済は、戦前の計画経済を通してできあがった。
1940年体制がタコツボ社会のルーツ
その後は、大政翼賛体制で日本国民全員がこうした思想にのっとって天皇を戴いた右翼になり、国家総動員、統制経済体制を敷いて戦争に向けて一直線です。 自由意思や個人主義は徹底的に排除され、全員が共同体の一員として行動することを強制されました。この体制下で岸信介たち革新官僚がナチスとソ連から輸入した統制的経済体制が、「40年体制」と呼ばれるものです。
このとき、労働者の長期固定雇用、一括採用や初任給・一斉昇給、ボーナス制度などが定められ。企業間の移動が制限されています。日本的雇用慣行の基礎はこの時期に確立されたのです。
企業統治の面では、軍需品の生産を優先するために、利潤追求が否定されました。配当が制限されたり、企業の国営化が図られるなど、株主の権利は厳しく制限されました。それまでは地方にも旺盛な起業家精神にあふれた人がいて、どんどん新しい産業が興っていたのに、政府は資本主義自体を否定してしまったのです。その分、金融統制会による協調融資が行われ、これはメインバンク制度の原型になりました。それまでの企業の資金調達は株式市場からの直接金融主体だったのに、1936年に銀行融資主体に逆転しました。民間の株式保有額は急減しましたが、その分貯蓄率が急増しました。企業の設立や資金貸付は政府の許可制になり制限されました。