「心」をどこに置くべきか
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 たいていの人間はそういう認識を持っているんだと思うけど、「誰に対してそれを感じるか」が問題じゃないですか。
運営者 それは、心をどこに置くのかという話だと思うんですけれど、心というのは持たないのが一番強いんですよ。「無」にするということ。無にするというのは同化してしまうことなわけです。まず目の前の相手と同化するのが一番簡単ですよ。確固たる自分を確立しないうちに単に同化してしまう人は多いですね。でもそれは「迎合」でしかありません。揺るぎもしない自分の骨格を作り上げたうえで相手と同化すれば、それは「しなやかな対応」ということになるでしょう。
相手と同化するというのは、さっきの占い師の話を思い出していただければ。それから合気道。相手がかけてきた力を、自分の中を通してそのまんま相手に返してやるわけです。自分がそこにいながらにしていなくなってしまうというのが、自分を無にするということですが、これは本当に強いと思いますよ。
だけど相手をさらに広く捉えて、世界全体と同化すると捉えた時に、しなやかさは最大化されるはずです。
なぜ強いのかと言うと、自分の心というのは、力を持っているからなんだと思います。それは意識して使うものではない。意識は幾つかの層に分かれていて、自分で意識することができる意識、潜在意識、無意識、そしてユングであればその下に「集合無意識」があると言うでしょうね。これは非常に仏教的な認識に近い。
潜在意識は、今までの記憶を総て留めていて覚えているといわれています。仏教でも、同じような考え方をしてますね。五感というのは意識が感じ取ることができるものです。第六感は、説明のできない意識の世界。そして第八感が阿頼耶識(あらやしき)といって、集合無意識とか色即是空の涅槃の世界です。「頼耶(ラヤ)」というのは「蔵」のことで、なんでも、既にもうそこ全てがあるんです。ヒマラヤというのは「雪の蔵」という意味です。
第八阿頼耶識は神様仏様の世界ですね。人間はそもそも既にこことつながっているのですが、第七感がその間に横たわっていて直接神の世界とつながるのを邪魔しているという説明です。禅の修行を積んでいくと、ふとした瞬間にこの邪魔をしていた第七感がパッと消えて、第八阿頼耶識の世界が見える瞬間がある、それを「悟りというわけですね。その時覚然大悟、「なんだ、俺は全体につながっているんじゃないか」というのがわかるわけです。
飯坂 そういう感覚はよくわかります。
運営者 そうですか、飯坂さんさすがに勉強していらっしゃる。僕は理屈ではそれは理解できるけれど、実感は沸かないですね。
飯坂 だってね、世界というのは自分の脳味噌の中にしか出来ないんですよ。自分そのものじゃないですか。自分の中にすべてがあるんです。認識違いや勝手な思い込みによって、外部世界と内部世界が一致しなくなった場合、自分がいい気になったり痛い目にあったりするだけです。
運営者 そう来ますか。世界認識ができて初めて客観が出来るということですね。不思議ですよね。発生の不思議というのはそういうことだと思うんです。
飯坂 電子回路で百何十億個の素子を作って、適切な発達のさせ方をすれば、「意思」はできると思いますよ。特別なこと、神秘的なことではないと思います。
運営者 アーサー・C・クラークもそう思ってるんですかねえ。
それが、理というものなんでしょうね。