ルネサンスとは、
神による精神支配からの脱却である
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 だけど彼らの理屈が通るのは絶対権力者の支配権が及んでいる範囲に限られているので、部外者から見ると全く正当性がない話の中でやっている狂信的な集団に見えるわけです。
そうした特殊な集団であるにもかかわらず、拡張主義的な傾向を持っている。そしてそれが行動としては、なんでもどんぶり勘定の中に包み込んでしまおうとする傾向があります。例えば貯金を郵便貯金として1カ所に集めてしまうとか、税金による富の再分配を国家が集中して行おうとするとか、あるいは道路公団による高速道路の料金プール制とか。なぜ一体としてまとめたがるのか不思議だったのですが、これも考えてみればよくわかります。
個人個人が知っているのは、権威を傘に着て「いかにやりたい放題をやるか」というテクニックなわけですから、とにかく資源は集められるだけ集めてしまって、自分の属する組織を大きくし、そのトップの権威はなるべく大きく、実権はなるべく小さくすることによって、「自分たちの裁量を最大化するよう」振る舞ってきたのではないでしょうか。
なんという姑息な発想でしょう。そのように自分が集めた資源を自由にすることができるシステムをつくり、あくまでそこを部分最適化して、競争を否定し、ルールを踏みにじり、新しい価値を創り出すこともなく、その中でのうのうと生きていこうとする、農村型社会の中でも特にぶら下がり根性が発達した人々の行動形態が、日本のビジネスマンの最も一般的な発想の形に落ち着いているという気がしてならないわけです。
最初は、そうした仕組みは善意を持った人々が運用していたに違いない。しかし、後継者たちには高潔さも高い志操もなく、チェックがかからないのをいいことに、そもそもの目的を見失い、暴走を始めたのでしょう。なぜこうした権限をチェックする仕組みを作らなかったのか。「神を試してはならない」というある種の畏怖によるんでしょうね。相手への依頼心という非科学的な動機をそこに見ることができるように思います。
この話をしていると、ある友人が、「小乗仏教と大乗仏教の違いは、カソリックとプロテスタントとの違いに似ているのではないか」と教えてくれました。確かに、坊さんでないと成仏できないとか、神と人間をつなぐのは聖職者だけであるという発想において、似通っているような気もします。非常に面白いヒントだなと思いました。
だから現人神なんだ。ヨーロッパでも、中世には自分たちが勝手に作った神の下にいて、キリスト教の宗旨と自分たちの社会システムをうまく調整しながら、ルールや規範を導きだし、その範囲の中で社会を運営していたのでしょう。
キリスト教の多神教ローマに対する勝利というのは、地域限定的で封建的圧制と文化的な閉塞と言う支配の論理が、それまでのコスモポリタニズムと開明的文化傾向に対して勝利をしたことを意味するのではないでしょうか。現代では一見、後者の方が前者よりも優位に見えますが、資源が乏しい時代には局所的に前者が支持を得ることも可能だったのかもしれない。キリスト教はそのきっかけを作ったのかもしれません。
ルネサンスは、そうした自分たちが作り出した神による精神支配からの脱却を宣言したものととらえることができるでしょう。のちのちには彼らは神に引導を渡すことになる。それによって彼らは、より人間自身や人間社会に対する考察を深め、かつ客観を獲得して科学を発展させることができたわけです。