「神の支配」から普遍へ
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 同時に重要なことは、彼らは自分たちの神を殺すことによって、より「普遍」に近付いたのではないでしょうか。
一般的な人間の行動傾向や、それに基づいた共同体運営のあり方を知ることによって、多くの人に共通して支持されることができるルールや規範づくりが可能になった。それは、すべての民族が寄りかかっている自分たちだけの神の支配から抜け出ることによって初めて可能になることではないのかと思います。
イスラム諸国も、アジアも、この点においてヨーロッパ諸国に遅れをとっています。いまだに、自分たちが作った宗教の支配から脱するに至っていないと私は思います。従来のサラリーマンの行動哲学が、組織内への従属に力点を置き、自分でものを考えない、物事のルールを平気で破る、付加価値の創出をいっこう心掛けてこなかったという理由の大部分は、ここにあるのではないかと最近私は思うようになりました。何かをやるときには、それをやるべきか、やらないでおくべきかを自分の価値観で考える必要があります。しかしもし組織の中に天皇がいれば、「これは陛下がお喜びになるかどうか」で判断すればよいわけですから、自分の価値観は必要ではなくなるわけです。
飯坂 A案とB案があるときに、どちらを選択するかという指針として天皇が存在するわけですよね。
運営者 それがどう変質するかというと、「偉い人を判断で煩わせないため、アイディアは最初から1つにまとめて持っていきましょう」ということになるんですよ。そのうちに最終決定者は棚上げしておいて、自分たちの都合のいいものを作って持っていくという仕組みができてしまった。これが日本的組織の通弊である「責任の空白」の理由だと思いませんか。
まず、絶対者が存在するということ、そして「絶対者に対して下の者が気を遣っているんだと」いう善意、「絶対者は偉いんだからその下の者が下した判断にも正統性があるので異を唱えるなど不敬である」という歪曲、このプロセスによって、結果的に善意が悪い結果をもたらしてしまうわけです。善意をきっかけにして悪事がまかり通るというのが現状で、その前提として絶対者が存在するわけです。
飯坂 それから、よく言われる言い訳として、「私は何も悪いことをしていないのに何でこんな目に遭うんだ」という言い方がありますよね。
運営者 「不作為の問題」ですね。悪いことをしないのが問題ではなくて、「あなたはものごと全体を見て問題が起こっていないかどうかを考えるべき立場にいるのだから、問題を積極的に摘発し解決しないのは怠慢ですよ」ということです。絶対者であるということは、権限を持っているだけに、本来はすべてに目を配らなければならない立場なんですよ。
官僚もそうだし、国会議員もそうだし、企業の経営者もそうなんだけど、「他の人よりも目配りをしなければならない立場にあったときに、知らなかったと言ってはだめなんだよ。あなたはそれだけの地位を得て、情報も豊富に入ってくる立場にあるのだから、そこでは問題を放置しておくということ自体に罪がある」と、組織全体に対する一歩踏み込んだ責任を求められるわけです。
飯坂 子供のころに、「ウソついてはいけません、人に迷惑をかけてはいけません」と教えられるけれど、「正しいことやりなさい」とはあんまり教えないよね。
運営者 つまり「日本の社会組織の中で生きられる最低限度のルールさえ守っておけば、あとは何もしなくても構わないんだよ」という教え方なんでしょう。だけどリーダーは本来は組織全体に目配りをし、みんなが常に最も良い方向に進めるよう考えて行動しなければならないわけなのですが。これもやはり、「絶対者の庇護の元で全てが自動的に解決するので、指導者といえど出しゃばる必要はない」という、他者依存的な態度に由来するものだと思います。
高坂正堯さんはこう書いてますね。「統治は統治階級の共同の責任であるということが理念的にも実際的にも確立している」「ベネツィアの共和国国会とイギリスの国会はその双璧をなすものといってよい」そうしたリーダー層の自負と責任感が社会を支えるわけです。そういうのはいまだに日本の文化には決定的に欠けている部分ですよね。恐ろしいことです。