心を支えるもの、心と繋がっているもの
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 ヨーロッパに行ったら、キリストの磔になったときの木とか、遺体を聖骸布とか、そんなのがありますよ。
運営者 ローマの4大寺院のひとつであるラテラーノ教会の横に小さな建物があって、そこにエルサレムにあったローマの総督府の階段というのを、コンスタンチヌス帝のお母さんが移築してるんです。キリストは、棘の冠をかぶって膝をついてこの階段を上ったというので、今でも信者が一段一段膝をついて階段を上がりながら熱心にお祈りをしている姿が見られます。ほかにもエルサレムから多くの聖遺物がローマに持ち帰られているみたいですよ。
飯坂 マドリードにもそういうのがありましたね。十字の形をしている木を見せられて、「これがキリストが磔になった十字架だ」と言われて、「これは完全にインチキだな」と悟りましたよ。
運営者 それでも信じている人にはありがたいものなんですよ。ローマでは50年おきに「聖年」というのがあります。最近では去年のことですよね。これはローマにある4大寺院をこの年にすべて回れば、それまで犯した罪が帳消しになるという非常に便利なもので、台所事情が苦しくなった法王庁が信者から金を収奪するために考えついて、勝手に決めたものです。
だけど信仰心の厚いドイツ人が騙されて、ずいぶん命がけでアルプスを越えて聖年にローマ詣でにやってきたものです。タンホイザーもそうだったのかな。それで当時はローマは没落していたので、人口も少なく宿泊施設もなく、聖年には人口が増えて食料が足りなくなるんですよ。それで食べ物の値段がずいぶん上がって市民の暮らしが厳しくなるぐらいならいいのですが、食べ物も泊まるところもない巡礼者たちが町の外で大勢凍死したり飢え死にしたりしたわけですよ。そういう死体がティベレ河をどんぶらこっこと流れて行ったり。
あるいは1450年には、ローマ街道からポポロ門を通ってティベレ河を渡るとき、サンタンジェロ橋に信者が殺到して、重みで橋が崩れ、172人が死亡したなんて事故もあったそうで、いやはやこの狂信ぶりは大変なものですよ。
これや免罪符で騙されたドイツ人が怒って宗教改革をやった気持ちもよくわかりますよね。
飯坂 あれだけ形而上的なものにどうして夢中になれるのか不思議ですよね。
運営者 僕らはアタマでものを考えますよね。でもね、普通一般の人は、ここに置いてあるような『セカンダリー・マーケット・モーゲージ』なんて本は読まないわけです。
一般的には、みんな自分の心を支えてくれるものを必要としています。それを常に意識していないとやっていけないんです。心ってすごく弱いので、いつも支えてくれるものが要るわけです。十字架を心に描いているだけで、苦しみにもある程度耐えることができるし、そういう効用があるのであれば安いものですよ。
飯坂 安いものだったからこそ何年も続いているわけですね。
運営者 だからあまり形而上的なんて感覚じゃないんじゃないかと思うんです。神をもっと心にとって身近なものに感じているのでは。
島原の貧しい農民が身を捨ててまで、そして何よりも恐ろしい当時の権威に対して反抗してまで守らなければならなかったものは何かというと、「それが自分の心と一体化してしまっていたもの」なんでしょう。それを否定されると、自分が死んでしまうというくらい極めて切実な守るべき対象であったわけです。僕はそれはいじらしいことだと思いますね。それから自分の心につながっているものを守ったり、つながりを再確認するための行為のためには、人はものすごいパワーを発揮することができるってことのも確かです。