「根性」でリスクを排除できると考える暗愚
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 ましてや、外部に対してカイシャを批判するなどという人間は、彼らにとってはカイシャ天皇制の一員として考えられないことなわけです。これは、カルト集団の特徴でもあります。
運営者 自分の属する組織を批判するということは、いかなる意味でも許容できない。
僕がこのサイトで、プレジデント社の悪口を書いたので驚いたという人がいるんですよ。笑いましたね。それじゃ、あなたは日本に住んでいるんだから日本の現体制に対して文句を言うのはよくないと思っているということなんですねと。それは、社会への参加を放棄した姿勢なわけです。
しかし、どうしてそのようなメンタリティーが発生するんでしょうかね。
飯坂 なぜかというと、今は組織の別の部分を非難しているとしても、いつその矛先が自分に向いてくるかわからないからですよ。批判的な人間は、だれを批判するかわからないですからね。公に批判を述べる人間は天皇を冒涜していると考えるのです。
運営者 ひいては、一切批判がないようにしておけば、自分の立場も安泰だということですね。それを逆に言うと、会社組織の中にいる人間は、すべての組織構成員に対して徹底的に無批判でなければならないということになってしまいます。
飯坂 リスクがゼロでなければ安心できないということですよ。
運営者 まさに、「安心社会」の考え方ですね。
飯坂 銀行が企業にお金を貸すときには、倒産などということは建前としてはあってはならないことなんです。どんな優良企業でも倒産する確率はあるのに倒産するリスクを定量的に把握することなく、担保さえ取っていれば条件に差をつけずに融資する。逆にやばいとなったら100%「潰れる」という「コンサバティブ」な仮定が一人歩きして、一斉に回収に走ることになってしまう。経済活動の個々のフラクチュエーション(ランダムな変動)を吸収するべき金融システムが、逆にそれを増幅してしまっている。
運営者 そう。それがメインバンク制の実態です。本当は、ノンリコースローンやプロジェクト融資が当然だと思うんですけど、でも、銀行はその企業全体のリスクを抱えこんでしまいます。しかもメインバンクであれば、自分が融資した部分以外の他の銀行のリスクまですべて抱えるという、契約以外のことまで保証しなければならないという信じがたいシステムなわけです。
飯坂 契約以外の部分まで面倒をみなければならないし、それに対して借り手である企業は、ありがたく銀行の天下りを受け入れたり支配を受け入れなければならない。なんで出世競争に負けただけの有能な人間を銀行で処遇せずに、客である融資先の企業が経理部長で雇わなければならないのか?
運営者 それはいったい、どこが中心となった天皇制なんでしょうね。
飯坂 それは大蔵省なんでしょうね。大蔵省の人間は、銀行というのはみんな、自分の支店だと思っていただろうし、銀行にしてみると、メインの貸出先の顧客企業というのは自分のなわばりだと思っていたはずです。そういうヒエラルキーのなかでしか自己も他者も規定できないわけですから。
運営者 まったくその通りだと思います。
日本の場合、なぜ間接金融の比率がこれだけ大きいのかという理由もそこで説明できるのではないかと思います。大蔵省の中での銀行局と証券局の力関係を考えてみれば、銀行局の方が偉いわけですから。そういうことで、間接金融と証券市場のポーションも決まっているんだと思いますよ。
飯坂 リスクを社会システムの要因として定量的にコントロールしていないということは、日本社会の未熟さの顕れであると考えられます。運命は神が決めるのではなく、理性の働きによる実務によって切り開いていこうとすれば、「人間は神ではない」ということが骨身にしみて実感できます。昔は神のせいにしていた「コントロールできない不確実性」がリスクなんです。
旧日本的組織の場合は、生殺与奪は神すなわち天皇の意によっていかようにでも左右できます。伝統的な神を殺すのではなくて、誰かがカイシャにおける天皇の地位を簒奪することによって、運命をコントロールしようとするのです。人間社会に起こる事象は力関係でコントロールできるのだから、「根性」でリスクを100%排除できると考えるのです。
だからこそ、不良債権の金額を過少計上したり、リコール報告を握りつぶしたりして、リスクを認識できなくても平気なのではないでしょうか。
日本人はみんなが役所のように100%の安心を求める結果、変動を増幅させるフィードバックのみが働いて、変動を制御するフィードバックが働かないんですね。明治の富国強兵や戦後の高度成長のように、それが奇跡を生むこともあり、逆に先の大戦に向かっていったときのように大きな痛手をこうむってしまうこともある。そう考えると現在のデフレも日本人が100%の安心を求める意識を転換しない限り、行き着くところまで行ってしまうのかも知れませんね。