負の方向の平等主義
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 ところで、平等主義というのはどこからスタートしているか考えてみましょう。
新日本人が他人と交わるときには、相手と自分の差異を認め、相手を他者として承認し、尊敬を払い、対等なパートナーとして関係をつくっていくというステップを踏まなければならないわけです。だから、相手と自分とは違っていて当然なんです。だから相手をねたむ必要もないわけです。
「People」というアメリカの雑誌があって、「この人はこんなことをして成功した、素晴らしい!」ということが書いてあるわけです。日本でそんな雑誌を出しても売れやしませんよ。だって週刊誌でやっているネタというのは、「あいつはいい女と付き合っているけしからん」「こいつは金持ちになったけしからん」という話なわけですから。別に法律に違反したことをやっているわけではないのに、天下の極悪人であるかのように批判され、しかもその雑誌が売れてしまうわけです。これはメディアの持っている社会的逆機能であり、最小化するように心がけないといけないはずのことですよ。
例えばたびたび引き合いに出して悪いのですが、竹中平蔵さんがリバーシティー地区の高級マンションを三戸持っているということが、たたかれる対象になってしまうわけです。彼は自分の知力を使って収入を得ているわけで、それで何を買おうが他人の知ったことではないわけですし、しかも身につけたは能力を世の中のために使って世直しをしようと、収入が減ってしまうにもかかわらず大臣職を引き受け、地方までわざわざ出かけていってタウンミーティングでわけのわからないおばさんと話している。それを何が悲しくて、「大臣になるために猟官運動をやったと」か、勝手なことを言われなければならないのか。
大臣になることだけが目的だったら、前に誘われたときになってますよ。
このような邪推や下司根性というのは、負の方向の平等主義に由来するものなのでしょう。「われわれは、なにせ平等でなければならない」とみんな思い込んでいるんですよ。だからこういう下卑た視点の主張は、何の根拠がなくても素直に受け入れられてしまいます。結果を考えずに、煽りに回るバカも多い。おかしいですよね、こんなの。
多分そういう人たちは、僕のように不正に対する怒りを元にして行動している人間のことは全く理解することができないでしょうね。なぜかというと、みんな平等でなければならないということがすべてに優先していますから、社会全体の立場に立ってだれかを批判するということは、彼らの世界ではありえないことだからなんです。そういう逆説がある。
平等とは何なのかというと、天皇の前における平等なんですよね。その天皇に対する平等性意識が、なぜか「ピラミッドの秩序を維持を絶対視する平等意識」に転化しているというのが不思議なところなのですが。このピラミッドは平等と不平等が混然一体となっていて、かつ基本的には「お前ら安い給料で身を粉にして働け」というのがベースになっています。