神も恥じる対象も、自分以外にはない
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 だけど少なくとも、矛盾律については日本人も通過しているはずなんです。
ただし矛盾律を適用すると最初に決めたことと矛盾することが後から出てきて、困る場合があるわけだけど、その困ったときに正攻法で解決しようとせずに、「じゃその矛盾自体を生じなかったことにしてしまおう」という態度が招いた結果が、今の日本なんじゃないですかね。
秤の重しを変えただけではなく、目盛り自体もあいまいにしてしまったんですよ。「ここからここまでは何キロということにしますよ」と幅を持たせて、「まあこの中に入っていればよしとしましょう」という感じですね。
運営者 ゴルフのパットの「OK」みたいなもんですね。「パットを練習したい」と思っていても、「OK」と言われてしまったら、それでカップインになっちゃうわけですから(笑)。
何せ、「1対3以内の中に収まっていれば、一票の格差は平等である」という判断を、国の価値判断の最高の秤である最高裁判所が打ち出しているわけですからね。「そんないい加減なことでどーするの」という話が、平気でまかり通っていますから。
これは何なのかと言ったら、その原因はやはり仲間との融和性、親和性に由来するんだと思いますよ。同じ組織の構成員との関係性を最重視するという。
飯坂 それは、恥じる対象がないですからね。
運営者 自立していれば、「自分に対して恥ずかしい」と考えるはずなんです。もし自律的な精神を持っていたら、そのようなごまかしをするということ自体が、プライドに反することになるので自分で自分が許せないはずです。
飯坂 自分の中で、論理矛盾が生じることになりますからね。それは、自我の崩壊を意味します。
運営者 HALだったら狂ってボーマン船長を閉め出してしまうわけですね。ダブルバインド状態ですな。
結局、恥じる対象というのは自分しかないと思うんですけれど。
飯坂 神というのは、自分の中にあるものだからですよ。神が自分の中にあるか、あるいは自分の中にはないと思っているかという問題でしかないでしょう。
神の姿を正確に見極めた人は、「神はすでに自分の中に内包しているものなわけであるから、恥じる対象も自分以外にない」ということを正確に認識しているわけです。
神に依存している人間は、神というのは自分たちがつくり出した偶像であり幻であるということが分からないから、「神に対して恥じる」とか、「先祖に対して恥る」という言い方をする以外に、恥を相対化する方法がなかったのでしょう。
運営者 だから、法然が救済しようとしたのはやはり、6割の人間の方だったんです。でも念仏仏教は全体的に十分機能を果たしたと思います。やっぱり当時は、経済が成り立っていない、ものすごく原始的な社会でしたから、
非常に天災や飢饉が多かったわけです。そのような目前で起きる矛盾を、6割の人々が耐え忍ぶことができるような慰謝を与える理屈を提供してやる必要があったんです。
飯坂 でもね、動物の世界というのはいつでも飢饉ですよ。
ところが、部分的に豊かになった人間の社会では、一部に富裕層が出てきて、同じ国の中で一方はいつもエサを探してうろうろしていて、もう一方は常に満腹していて力も強いというという状況があったときに、その差をどうやって自分に納得させるかということだったと思うんですけど。