「知への欲求」なくして
自立への旅立ちはない
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 次は、「知への欲求」なんですけどね。「いい仕事をしたい」とか、「自分がやってる仕事の本当の意味を知りたい」とか思ったら、必ず出てくる欲求のはずなんです。
だけど、旧日本人の人々は、「知」を求めようとも思わないし、勉強している人がいたら仲間外れにするし、「知など求めない方がいいんだ。勉強なんかしてもしようがないんだ」などと平気で主張している馬鹿者も少なくありません。これは何なのか。
飯坂 それはね、「自分というのが何なのか、世界というのはどうなっているのか」に対する興味がなくして、知への欲求は出てこないですよ。消費をすることがすなわちアイデンティティーの確立となっているような人では、知への欲求などあるはずないじゃないですか。
運営者 そうですね。「なぜ自分はカルチエを買うのがいいことだと思っているのかな」とか、「どうしてヘルメスに値打ちがあるのかな」とか、「なぜなぜなぜ」と疑問がわいたところから、自立というのは始まるものなんです。そこがスタート地点です。
飯坂 そういう疑問を持つということは、自分に対して疑問を持っているということであって、それに対して答えができたら、それは今までの自分が崩壊する瞬間なんですよ。
運営者 自分が今まで頼ってきた神が崩壊する、ということですね。
飯坂 その今までの自分の崩壊していく瞬間というのが、「知」を得ている時なわけです。その崩壊がない限り、「知」への欲求は湧いてこないでしょう。「認識はすべて自分の中に構築されるのだ」ということを、明確にではなくてもいいからちゃんと理解して、「だからものを知りたい」というふうに考えるのが「知への欲求」ですよ。
運営者 竹中先生が、「トータルプラン」っていう言い方をしてますよね。「1つの事柄だけを変えるのではなくて、すべてを一度に入れ替えましょう」という主張です。「制度の補完性」を乗り越えるためには、まるまる1セット新しいシステムを導入しなければならないからなのですが。
それとほぼ同じように、旧日本人のマインドセットを、新日本人のマインドセットとがらりと入れ替えてしまわなければならないということです。「時期尚早だから徐々に変化させよう」などと眠いことを言っていては、足を引っ張られてなしくずしになってしまうというのは、非常に「経済的」な発想だと思いますね。
例えば、旧日本人が、合理精神だけを身につけたと考えてみましょう。しかし、周りの人に引きずられるので、合理精神も骨抜きになってしまいますよね。「お前の考え方は間違っている」とか、「お前みたいな奴は仲間じゃない」とか周囲にいじめられて、さんざんな目にあわされるから、「こんなつらい目に遭うくらいだったら旧日本人のままでいたほうがいいや」と妥協してしまうわけです。そうするとせっかく身につけた合理精神もまた元の黙阿弥ですよ。あるいは、会社を辞めることになるか……。
まぁ、結局どちらにしても新日本人に脱皮した時点で、それまでの会社は辞めることになるんですけどね(笑)。