■部分最適化 / 役割認識
おやじ しかし部下の間でいさかいを起こさないようにしながら、組織を無難に操縦していくのが、できる管理職じゃないのか。そのためには、最終的にはすべてを上司が収めるしかないだろう。
山一証券の最後の社長が、「部下は悪くありません、すべて私が悪いんです」と言っていたが、まったくその通りで、最後は上司が責任を取る覚悟を決めておけばそれでいいんだ。
若造 それで山一の社長は満足したかもしれないけれど、クビになった社員たちはいいい面の皮だよね。社長は恥ずかしい泣きっ面を世界中にさらしただけですんだかもしれないけれど、社員は新しい働き場所を見つけなきゃいけなくなったんだから、まったく責任を果たしたことにはならないと思うよ。
社長の責任というのは、ちゃんと収益が上がるように会社を運営して、次の人にバトンタッチすること以外にはないよね。会社をこかしたら、「ただのマヌケ」と笑いものになってもしょうがない。
自分の仕事さえちゃんとやってくれれば、何も問題は起こらないんだけど。
おやじ リーダーというのはそういうものじゃないだろう。何かが起こったときにはリーダーが解決しなきゃいけないわけだから、もめ事を収めるためにも人徳というものがなければならないし、一通り経験を積んでいなければならないし、基本的には何でもできる、「重み」のある人間でなければならない。
お前たちのように、何かというとカタカナ文字を使うが、いざというときにまったく役に立たないような連中には、トップの座は五〇年早いということだ。
若造 そうすると、リーダーにふさわしい「重み」のある人間にしか昇進は許されていないのかと思ったら、そうではなくて、だれでも年功で昇進できる、鼎の軽重なんか全然問われないのは矛盾してるよね。
それを置いておいても、「リーダーは何でもできて、何でもわかっていなければならない」というのは、あくまでも「リーダーはそのような存在であってほしい」という旧日本人の願望でしかない。実際は、リーダーにも苦手なことは必ずあるはずだし、万能の天才でなければ組織の長になれないということではない。
だけど、組織のリーダーに過剰に期待するのは、旧日本人が、アジア的な「人治」の概念に縛られているからじゃないかと思うね。つまりルールによって組織を収めるのでなく、リーダーの人徳によって社会を治めるという伝統的な考え方なんだ。
だからリーダーは何でもできなきゃいけない。そういうすぐれた人間だから他人の尊敬を得られるので、それで人は初めて彼に従うことができるという図式がある。そのリーダーの優れた資質は天から与えられたものであるが故に、彼が組織を収めるのは正しいし、納得し従うという考え方だね。