■戦略・意思決定不在・無謬主義・建て前主義 / 「目に見えないもの」を見る
おやじ オレは管理職として、そういう動き方はしたくないな。それじゃ、人非人になってしまう。お天道様に対して申しわけが立たないぞ。
若造 大概の旧日本人はそう考えるけど、もし管理職が効率や戦略を無視して人情に流された人員配置や行動計画、予算を立てたら、それに基づいて全員がムダな動き方をしてしまい、貴重な会社の資源をムダ遣いしてしまうことになるんだよ。それによって「機会損失」という損害を会社に与えることになるんだけど。
おやじ 何だそれは。オレは会社に損をさせるつもりはないんだがな。
若造 もし冷静に考えて人員配置を変更し、多少社員の心が傷ついたとしても、戦略的に正しい選択をしていれば儲けが出ていたはずなのに、そうしなかったから損が出たという場合。その差額は、会社に損を与えたことになるでしょ?
おやじ そんな目に見えないもの、どうしょうもないじゃないか?
若造 いくら美人でも、性格が悪いとどうしようもないじゃないか。目に見えないことの方が大切なことが多いんだよ。
そして管理職には、「目に見えないもの」が見えなきゃだめなんだ。時間は資源なんだから、管理職は一瞬たりともムダにしてはならないし、情に流されて不適切な判断をしてはならない、それが責任者の責務です。管理職が悪者になることで、最終的にみんなが得をするなら、そっちの方がいいじゃないか。
おやじ そういう厳しい判断をしなければならないものなのかな?
若造 当然だよ。旧日本人は、そういう責任者にとって必要な経営の価値概念をわざと知らないふりをして、嫌なことから逃げているようにしか見えないね。それこそ無責任だよ。
管理職として期待された役割にふさわしい、有益な価値を創り出さないと、それはプロではない。単に「今その瞬間を過ごすため」だけに会社に行っているのでは、立場と責任を考えればあまりにも情けない生き方だとしか言いようがない。
おやじ いくらお前でも、そこまで言わなくてもいいじゃないか。
若造 いや、ぼくの上司のことを考えると、そう断言できるね。あれじゃあんまりだよ。ぼくたちはほとんどそういう怒りと絶望感を感じているんだよ。
そういう根性無しのくせに、決して自分のまちがいは認めようとしない尊大さ。テコでも自分のまちがいを認めない。「まちがいなんかあっては沽券にかかわる、オレは完璧だ」いう感じだもんね。
おやじ ある程度は仕方ないんじゃないか。日本企業では、トップに近づいたらおとなしく駕篭に乗って担ぎ上げらげられる必要があるんだよ。そうじゃないと納まりが悪いんだ。そして「オレはまちがいを犯さない」という演技もしなければならないのさ。
若造 それこそまちがってる。人間はまちがいを犯す動物なんだから神を演じる必要なんかないんだ。彼らも「自分たちの経営がうまくない」ということを一刻も早く認めて、その椅子を誰かに譲り渡すか、根本的に経営戦略を立て直すか、どちらかをやるべきだ。大切なのは、メンツにかけて無理を押し通すことではなくて、よりよいシステムをつくり続ける努力なんだよ。
さっきも言ったけど、「組織のトップはまちがえない」、あるいは「役所はまちがいを犯さない」という建前なのは、「人治主義」だからだよ。神に代わって人徳によって人が人を治めるという仕組みだから、決定権を持つ人間にまちがいがあってはならないんだ。そして旧日本人たちは、決して神でも何でもない目上の人間に対して喜んで依存しているわけ。自分自身では努力をせず、責任もとらずに他の誰かに問題を解決してもらうという虫のいい態度をとり続けるためには、親分を神さまにしておいた方が便利だもんね。だから旧日本型組織では、「建前」という子供じみた約束事が罷り通るんだよ。
だけどそれは、まともな大人が認めるべきこととは思えないな。ぼくたちは、自分自身の力を信じて、自分で道を切り開くべきではないんだろうか?