地位が上の者の無謬性以外には
支配の論理がない
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 権威主義の愚です。それが、人治主義のエッセンスですよ。
飯坂 つまり、ここのところ日本の組織が変わったように見えるけれども、個々人の意識レベルでは変わっていないんだよ。
運営者 僕もそう思います。そこで最初の話に戻ります。つまり、日本文化のくびきから逃れることが、いかに厳しいかということなんです。
われわれが持っている文化は、結局のところあらかじめ定められたルールに基づいて、「正しいことは正しい、まちがっていることはまちがっている」という文化ではないんですよ。
なぜかというと、自分がある集団に属していて、その集団はピラミッド型の構造を持った上意下達型の集団であって、上位の人間には逆らうことができない。なぜならばそれは集団の秩序を乱すから。
だから「上の人が正しいと言ってること」が、ルールや知識や、下手をすると目の前に起こっている現実よりも優先されるわけですよ。
ここがキリスト教型の契約社会と、決定的に違うことです。われわれは自分が属する集団と別個の価値判断をすることができない! 集団の意思を決めるのは、「上の人」です。
飯坂 「地位が上の者の無謬性」以外には支配の論理がないからね。だから上にいる人が言うことは、常に正しくなければならない。
運営者 でも正しい識見を持った人が上に上がっていくわけではなくて、年功序列だから、ダメな奴が人が組織の上位者になると、「地位が自分の正当性を担保している」と、つまり「部長の俺が言ってるんだから正しいんだ」という信念を持つに至るわけです。まったくの倒逆なんですけどね。
日本社会において秩序を守るために定められているルールというのは、そういう人たちにとって「正しい、守るべきものだ」と思われているものなんでしょうかね。
飯坂 ルールは正しいことの方が多いんだけれど、たまにルールのほうがまちがっていることがあって、そういう時は上の言う人が言うことが正しいということなんでしょう。
それから、上の人が言うこととルールを比較してみると、おそらく上の人が言うことが正しいんでしょう。
運営者 それではルール軽視ですよね。
飯坂 そうですよ。上の人が言っていることとルールが違う場合には、ルールのほうの解釈を微妙に変えるし、それでもなおかつコンフリクトが生じるときは、何らかの形でルールのほうを変えてしまうでしょうね。
運営者 私が知っている一般的なケースでも、まさにそうですよ。しかしそれでは、法治国家とはいえないわけです。
飯坂 相撲協会に、まさにそうした傾向が集約されているでしょう。