どんなに卑しくても同じ人は二人とない
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 存在しませんねぇ。人格を持った個人というのは天皇だけだったですからね。
運営者 天皇が現人神として存在することによって、ヨーロッパの神のように絶対的なものではなく、手の届く所にいる存在であるということも作用して、自らを「個人」として超克するチャンスを明治以降の日本人は失ってしまったというふうに言ってるんだと思うんです。
個人が自立するために必要なものは何かというと、『新日本人革命』の中でもさんざん書いた、「自分と他人は違うのだ」という認識だと思うんです。
普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、どんなに卑しくても同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値という考え方に立って、政治・社会の諸々の運動・制度を、それを目安にして批判してゆくことが“永久革命”なのです。」(「日本の思想」)
それというのは、共同体的な農民の社会ではあり得ないことなんです。一蓮托生だから。
飯坂 あり得ないでしょうね。「七人の侍」のラストシーンで、みんな一緒になって田楽を歌いながら田植えをやってるじゃないですか。
運営者 ちょっと前に日経新聞の「私の履歴書」にイトーヨーカ堂の伊藤雅俊が連載をしてましてね、その最終回で詠み人知らずの「商人の道」の詩を紹介していましてね。
農民は連帯感に活きる
商人は孤独を生き甲斐にしなければならぬ
・・・我が歩む処そのものが道である
他人の道は自分の道ではないと云う事が
商人の道である
いかにもという感じがしますけれど、これがおそらく最近の個人主義的な風潮が高まった時代ではなくて、かなり昔の詩としてあるというのが面白いと思うんです。これが商人の本質なんでしょう。
集団で農耕を行う人たちというのは、その上がりも割り勘なわけです。商人というのは、テメエで売ったものはテメエの稼ぎなんです。
それは武士とおんなじで、日本の武士というのはヨーロッパのような集団戦法ではなく、一騎打ちで戦いますよね。だから生きるか死ぬかは純粋に自分にかかわるわけで、そこから個人主義が出てくるわけです。