日本人の中で、
世界と日本は永久に重ならない
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 ですからね、日本人の中で、世界と日本は永久に重ならない。
日本人は異質なものをなんでも取り入れることができるんだけれども、それと一体化するかというと、決して同化しないんだと思います。開国は不可能だし、多分外交も不可能なんですよ。
飯坂 それは、日本人はユダヤ人の次に、「自分たちはアウト・オヴ・ザ・ワールドだ」と認識したからじゃないですかね。
遣隋使の時に、日本はもうすでに対中国の観点で自分を相対化して見ることができていると思うんです。それは、個人として自分の人格を認識しているわけではなくて、「日本人」という疑人格的なものとして自分を相対化しているんだと思います。
中国文化の源流である、はるかな母のような巨大国に対して、「日出る処の天子云々」という国書を送ったという話ですからねぇ、ホントかどうか知りませんが。
その時にはすくなくとも他者と自分をしっかり認識していたということがわかりますよね。
それは結構すごいことだと思うけど。
運営者 そうですねぇ。でもその時に、それまでの共同体的で中空的な社会認識から脱皮することができたかというと、聖徳太子はそれができていたかもしれません。
だけど日本の主だった人たちがそういう自己超克ができたかというと・・・。
飯坂 そんなこと、できるわけがないじゃない(笑)。
そんなことができたのは、西洋においてデカルトに到ってやっとできたということですし。
運営者 だからルネサンスは偉大なんだと思うんです。
飯坂 そこに世界で最初に到達できたから、西ヨーロッパの文化が世界を支配するようになったわけでしょう。
運営者 僕はそう認識してます。
つまり、それ以前のキリスト教も、イスラム教も、仏教も、自己救済というのはないんですよ。
阿弥陀にすがるとか、最後の審判の日になって初めて自分たちが、天国に行けるのかどうかが分かるということであって、自分が善行を施したからといって自分の運命が変わるというわけではない=予定説、という考え方なんです。
つまり神に全面的に依存していて、自由意志がない考え方ですよね。
宗教にはまっている人は、宗教がすべてを覆ってしまって価値を相対化できなくなります。でも、「絶対」に対抗するためには、外部に普遍的な価値を求める必要があるわけです。じゃないと呪縛から逃れられません。