「教育勅語」が忠君愛国の臣民をつくった
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 その一方で、藩閥政府は条約改正を目的として民選議会を作ろうとしていたわけです。
飯坂 条約改正が目的であって、民主主義のための議会ではないですからね。
しかも、「議会を整備すれば条約を改正してくれるかもしれない」という一方的な思い込みによってやっているわけですから、どうなんでしょうね・・・。
運営者 結局、藩閥政治側としてみれば怖いわけですよ、古い士族階級は、藩閥支配の正当性を認めない人たちですから。
だからそういう連中を抑えつけてしまうためにも、天皇絶対制を作ってしまうのが早かったんでしょうね。
民選議会を制限選挙の形で作りますけれど、同時に欽定憲法を発布することによって天皇の優位性を揺るぎないものにしてしまうと。だって民選議会は天皇の意思でできたものということですから。
「将来如何の事変に遭遇するも・・・上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざる」(伊藤博文)。
すごい執念ですよね。国家百年の大計を立てていた人たちはスケールが違います(笑)。
丸山は・・・、
天皇制的な「正統性」が原則的に確立したのは・・・、明治22、3年以降のことであり、ほぼこの頃から社会的規模で開始された日本帝国的信条体系への「臣民」の同化過程は、明治30年代の中頃までに一応のサイクルを完了する。(『忠誠と反逆』)
と書いています。
江戸時代の支配階級=士族の復活を抑えるためにも、天皇を中心とした忠孝一致、忠君愛国の国家をつくらなければならなかったんでしょうなあ。
丸山はその体制を完成するのに非常に力があったのが、明治憲法と「教育勅語」だったと言ってます。
飯坂 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス・・・。