日本では国家と社会は一体化している
インタビュアー 飯坂彰啓
「日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者であることの公然とした宣言であった」
「明治以後の近代国家の形成過程において国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本のナショナリズムは内容的価値の実体であることにどこまでも自己の支配根拠をおこうとした。・・・権威は権力と一体化した。・・・これに対して内面的世界の支配を主張する・・・勢力は存在しなかった。」(『超国家主義の論理と心理』)
運営者 日本国は、国民一人ひとりの意識の中にまで浸透し、介入し、支配することができるんだということです。教育の段階から国家の支配を刷り込むことができる装置だったんですね。
ただ、「権威は権力と一体化した」かどうかというと、そこは議論の余地があると私は思うのですが。
ともかく教育勅語と御真影によって、日本人を意識から支配しようとしたんでしょう。
まあ、主体思想のようなものではないですかねぇ。
飯坂 まさに主体思想は、そのコピーなんでしょう。
運営者 日本で絶滅した、MAID IN JAPANの絶対君主思想が純粋な形で生き残っているのは、北朝鮮ですからね。しかも統治システムとしては、中国的な本来の親政をやっている。ヤバイ国です。
で、その「教育勅語」によって、個人と、国家と社会を分離することができなくなってしまったと丸山は言っています。国家と社会は違うものだという考え方は、今の日本にだってないわけです。ということは、国家を打ち倒すことができないということなんですね。これは便利ですよね、革命という考え方がなくなりますから。
ヨーロッパであれば、個人が属している社会は国家でなくてギルドのような「自主的結社」だったりしました。だから国や宗教の権威を相対化できたわけです。
自分自身で価値をつくることができる人は、「自分は社会に通用する価値を創造できる」と思っているから、絶対権力を「そんなものオレにもできらあ」と相対化することができます。だから権威を恐れません。そこが肝心なところです。
ヨーロッパでも、教会と国家権力が分離していたからこそ、「人(王)に従わんよりは我(神=教会)に従え」ということで、ここから王権に対する「抵抗権」の発想が出てきます。教会は地上の権力を超えた「普遍者」の後ろ盾があるわけですから。
宗教改革の歴史は、ややねじれたところがありますが、ブルジョア階級の王権に対する独立に力を与えたことはまちがいがない。ロックやルソー=近代国家につながる思想の流れです。
飯坂 なるほど、日本では国家と社会は一体化してますよね。それから社会と会社は「世間」を媒介にして一体化しているような気がします