非政治化された日本国民
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 近代日本は、社会と国家と個人をきっちり一体化してしまって、しかも一方的に国家から個人に介入できるようになってしまったわけです。
飯坂 個人の側から国家に介入する手段というのはないですよねぇ。
運営者 たとえ現実はそうであったとしても、「個人個人が認めてやっているから、今の政権は成り立っているのだ」という認識は重要だと思うんですよ。そこに自由があるわけですから。
丸山は、日本的共同体の支配構造は、権威と実権がかい離していると考えていたわけですが、明治以降の日本政府はそれ以前の政治形態とは違う、明治以降は「権威は権力と一体化した」というふうに考えているみたいなんです。これはボクにはピンと来ません。
おそらく権威である天皇と、実権を持っている政府が不即不離に一体化しているというのがその根拠なんでしょうね。
だけどどこからどこまでが国体かということは、さっき触れたようにまことに曖昧模糊としたものでして、誰にもわからないものなんです。だからこそ、国家と社会がつながっているということです・・・。
もうひとつは、そのように忠孝一致で国家と個人を一緒にすることによって、国家に対抗する自主的な集団というのが欧米にはあるわけですが、日本ではほとんどなくなってしまったということがあります。
これによって「日本国民は非政治化された」と言ってるんです。
「天皇制が政治的対立の彼岸におかれ、空気のように目に見えない雰囲気として一つの政治的強制力を持つようになった。したがって、それは、そこの中に住んでいる人間にとっては、空気と同じようにほとんど意識されない。・・・意識するのは非常に少数のものだけ」(『超国家主義の論理と心理』)
飯坂 そこで言う政治というのはどういう意味なんでしょうね。
運営者 それはおそらく、「いやしくも政府という名がついているものであれば、転覆する努力をすべきものである」という発想でしょうね。
飯坂 しかし「国家は家族のようなものである」と言われると、なかなかそれを否定するのは難しいですし、否定する根拠も当時の人たちは持っていなかったでしょう。
運営者 どうすればそのような家族的な国家観を否定することができると思われますか。