タコツボの中には自由感がある、これが危険
インタビュアー 飯坂彰啓
飯坂 タコが外敵に遭遇したときには、どうするか知ってますか。
まず相手を包み込もうとするんですよ。うまく包み込めなかった場合は、スミを吐くんです。発光器か何かを使って目くらましをすることもあります。それでもダメなら後ずさりして逃げるんですね。
運営者 ヤバイ相手は、抱き込もうとして、抱き込めなかった場合はごまかしながら逃げていくということですね。それは信念を持たない、卑怯者のすることですよ。
丸山はこう言っています。
「自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。
ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。
自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。
人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」)
飯坂 タコツボ社会では、「王様は裸だ」ということを指摘する言語すらなくなってしまいますよね。
誰かが「王様は裸だ」と叫んでも、その言葉が一体何を意味しているのかを、他の人が理解することができなければ、どうしようもないですからね。
運営者 それはまったく、今のわたしの状況に近いんですけどね。
丸山は「タコツボ社会」にたいして、「ササラ型」という概念を出しています。ササラというのは竹製の中華鍋を洗う道具ですが、根本が同じ竹で先割れしてるんです。そういう形の社会がよいのではないかと述べています(『日本の思想』)。