「しかたがない」
・・・既成事実への屈服の愚
インタビュアー 飯坂彰啓
運営者 しかもタコツボの中で頭がぼけているから、「自分は自由だ」と思っている。抑圧をまったく感じていない。他人に区切られた枠の中で、最大限わがままにふるまうことで自尊心を満足させられるわけです。
そういう人いますよね。うんざりです。
そして自分が閉じこめられている檻については、「現実はそういうものなんだからしかたないじゃないか」と簡単にあきらめています。
やたら現実志向の人っているじゃないですか。「いやー、岡本さん。そんな原理的なこと言ったって、日本はそういうふうにできていないんですから。起こってしまったことはしかたがないですよ」と、初めからあきらめているくせに、「自分は大人だ」と威張っている人ですよ。アレをどう考えればよいのか。
何を提案しても「現実的でない」と言って否定する人の意識はどうなっているのかということですが、丸山は彼らのいう現実は「既成事実」に他ならないと言っています。
そして彼らは 「既成事実に屈服」してるんです。ここがまた、旧日本人の大きな問題なんです。
現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、普通“現実”というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。
いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。“現実だから仕方がない”というふうに、現実はいつも、“仕方のない”過去なのです。(『「現実主義」の陥穽』)
これは、イラク戦争開戦前の、アメリカの対イラク武力行使に対する政府ののらくらした姿勢を思い出すと、よく当てはまります。
外交当局の姿勢は「起こってしまったことはしかたがない」に終始しています。自分では態度を決めることができないので、野党やメディアの突き上げに困って、「早くアメリカは態度を決めてくれないかな」と思っていた節すらあります。
つまり、日本タコツボ社会の中で「自分は上位にいる」と思っている人は、自分に都合のいい「現実」を待っているわけです。だけど、その現実はあくまで一断面でしかないわけであって、状況を変えようと思えばみんなで立ち上がればいくらでも変えることはできるわけです。
だから、「手を拱いていいのか?」と思うんですよ。やる気になれば、変えられないことなど一つもないと私は思うわけです。